友がくれた「マグロ」の勲章と、これからの暮らし方

今から50年前のブラジル駐在時代からの大切な友人が、突然、旅立ってしまいました。亡くなるわずか一週間前、「また電話するね」とLINEを交わしたばかりでした。それが彼との最後の会話になってしまいました。私のことを、「お前さんはマグロだね!」と言ったのは、実は彼が最初でした。いつでも何か仕事を作っては、せわしなく働く私の姿を見て、親しみを込めて呼んでくれたのです。他の友人からも同じように言われるたび、私はどこか誇らしい気持ちを抱いていました。

80歳の「すぐやる課」

気がつけば、私も80歳になりました。しかし今でも、いつも何かをしていなければ落ち着かず、必要のないことにまで精を出していしまいます。私が小学生の頃の田舎を思い出すと、当時の60歳はもう立派な「老人」でした。一日中縁側で、気持ちよさそうに日向ぼっこをしている姿が記憶に残っています。

ですが、今の私に「一日中日向ぼっこをしろ」と言われても、到底不可能です。我が家での私は、まるで「すぐやる課」の職員です。妻が「あ、これ修理しなければ」と言ったり、「包丁の刃が切れなくなった」とつぶやくのを小耳にはさむと、身体が勝ってに動いてすぐに実行します。

マグロ様に申し訳ない

しかし、友の突然の別れを経験し、ふと考えさせられました。いつまでも、こうしてバタバタと動き回っているわけにはいかないな、と。本物のマグロは回遊魚ですから泳ぐのを止めてしまったら死んでしまいます。だから彼らは命のある限り、命がけで海の中を泳ぎ続けています。一方、人間である私はどうでしょうか。たとえいつか自分で動けなくなる日が来たとしても、周りの人の優しさと介護の力を借りて、ありがたく生きていくことができます。

そう思うと、ただ「じっとしていられないから」という理由だけで必要もないことにまでバタバタと動き回っている私は、命がけで泳いでいるマグロ様に対して、なんだか少し申し訳ないような気がしてくるのです。

「あの世は、きっとええとこに違いない」

そんなことを考えていると、小学生の頃私の田舎で耳にした、忘れられない光景が蘇ってきます。同じ部落の人の葬式に参列していた二人の老女のことです。背中の曲がった一人の老女が、連れの老女に向って、こんな問いかけをしていました。

「あの世とは、どんなとこかのをー」すると連れの方は、事もなげにこう返したのです。

「そりゃー、ええとこに決まっておろうが」

「どうして?」

「どうしてって?あの世に行ったもんは、誰ひとりとして帰って来んじゃろが」「ええところでなかったら誰か返ってくるぜよ。」

そう言って二人はそろって得心したように、「なるほど。ええとこに違いないなー」とうなずき合っていました。

この何気ない、けれど心理を突いたおおらかなユーモラスな会話が、今になっても私の耳から離れません。先に旅立ったあの友人も、その「ええところ」に到着して、のんびりとコーヒーでも飲んでいるかもしれません。それとも大好きなBNWのオートバイで天国の国道を走っているかもしれません。ふと、そんな気がしてくるのです。

これからの「日向ぼっこ」

それなら、残された私は、何もそんなに生き急ぐ必要はありません。これからは少しずつ、坐禅を組むような静かな時間も作り、心に落ち着きを取り戻していきたいと思っています。それにしても、私もあの老女たちの、死に対する驚くほど素朴で心理を突いた心境に到達したいものです。そんな風に自分を振り返っている、今日この頃です。

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