世界の挨拶から学ぶ「ハグ」の力ーー日本の高齢者家庭に届けたいぬくもり

残り1里の旅

1.日本で静かに広がり始めた「ハグ」という挨拶

近年、日本の街角でふと目を向けると、以前はあまり見かけなかった光景が広がり始めている。飛行場の到着ロビー、駅のプラットホーム、レストランの待ち合わせで――若い女性同士が軽く抱き合って再会を喜ぶ姿だ。そこにはぎこちなさはなく、自然な挨拶として根付き始めているようだ。高齢の女性同士でも、久しぶりの再会に手を取り、そっと肩を寄せ合うようなハグがみられるようになった。日本では長く、挨拶と言えば「おじぎ」が中心だった。身体を触れ合うことは特別な意味を持ち、異性間ともなればなおさら、どこか人の目を気にした照れや遠慮が付きまとう。

そのため、ハグは恋愛感情や男女関係と結びつけられがちで、家族の中でさえ自然に行われることが少なかった。しかし、時代は静かに変わりつつある。海外経験のある若い世代が増え、SNSで世界の文化が日常的に流れ込み、「スキンシップの挨拶」が取り入れられているようだ。私は、この変化をただの流行ではなく、日本の家庭、特に高齢者の家庭にこそ必要な”新しいぬくもりの習慣”として期待している。少しづつ日本にも「おじぎ」の垣根をこえて根を下ろし始めている。

2.海外駐在員生活で身についた“触れる挨拶”の自然さ

●ブラジル:初めての「ハグ」の習慣

最初に日常的にハグを経験したのは、30代のブラジルでの駐在生活だった。男同士のハグは、しっかりと抱き合い、相手によっては”こぶし”で背なかをドンドン叩かれる。ハグのもともとの習慣は、「相手が背中に武器を隠していないかを確認する」ための仕草だった聞いた。女性との挨拶は、相手との親密度にもよるが、社員との挨拶では、ハグでなく”チークキス”が一般だったように思う。ただ、チークキスには細かなしきたりがある。相手が既婚女性の場合は、「どちらの頬から始めるか」「何回キスをするか」など、未婚女性の場合は、1回のみーーー。慣れるまでは少々緊張した。さらに、私たち家族が住んだブラジル最南端の州のリオグランデ・ド・スール(南大河州)では、男同士のハグは、ガウショ(牧童)流で、かなり荒っぽい。しっかりハグをし返さないと、倒されてしまうほどだ。 今でも家族や親しい友人との手紙やWhatsAppでのメッセージのやり取りの最後の挨拶には、Abs&Bjs(Abraços & Beijos=大きなハグとキス)と書く。「ハグとキス」は、ブラジル社会に溶け込んだ大切な習慣だ。

●オランダ:日常的なハグとチークキスから親密なハグまで

日本の大手食品会社のオランダ現地法人の社長として長く暮らすうちに、私はブラジルやメキシコで経験したハグやチークキスとは異なる”触れ合う挨拶の文化”を身につけた。朝、オフィスでは出勤してくる社員たちが「オハヨー!」と挨拶しながらハグをしたり、チークキスの音が響く。私が出社すると、同僚が”おはよう”と言いながら軽くハグをしてくれる。相手が女子社員であれば、チークキスをする。私は、チークキスが慣れたとはいえ、キスの音がうまく出せず、へたくそなウグイスの鳴き声のようになってしまう。こんな朝の習慣でも、日本人の同僚間では、言葉だけの「オハヨー」だ。日本人同士のハグやチークキスは、海外でもなかなかハードルが高い。夕方、仕事を終えて帰るときも朝と同じような光景だ。「今日も一日お疲れ様」とか「また明日」と言いながら、ハグやチークキスの挨拶だ。

会社を離れて、知り合いや友人の事務所を訪ねたとき、食事を一緒にするとき、レセプションで再会したときなど、相手によって違いはあるものの、挨拶としてハグやチークキスを自然に交わすようになった。ここでも困ったことに、相手が日本人の場合は、つい「声掛けの挨拶」になってしまう。オランダ在住が長い日本人女性の場合でも、こちらが日本人だとわかると気が引けるのか声掛けの挨拶になる。日本の習慣の切り替えは難しい。

久しぶりに会う友人の場合は、少し強めのハグになる。再会の喜びがそのまま身体に伝わり、ことばだけよりも心が通う。相手が女性の場合だと、別れ際には軽いチークキスを添えることもある。最初は、照れくさく、どこかぎこちなかったが、毎日続けるうちにそれが”人と人が向き合う自然な距離感”だと感じられるようになった。オランダでは、ハグやチークキスは、特別な行為ではない。恋愛感情とも結びつかない。ただ、相手の存在を尊重し、「あなたと会えてうれしい」「今日も一緒に働けてよかった」そんな気持ちを伝えるための、生活の中の挨拶のひとつだ。

しかし、日本に帰国すると、挨拶は一気に非接触に戻る。握手かおじぎになる。丁寧であるが、どこか温かさがない。そんななかでも、オランダから友人が訪ねてきたとき、駅のプラットホームで交わした強いハグは、懐かしさと喜びが一気に胸に広がり、「これが人と人が再会した時の自然な感情なのだ」と分かる。言葉だけでは届かない感情が、ハグには宿っている。それを私はオランダで学び、体で覚えたようだ。

●スペイン:語学学校教師が学生に語った「挨拶としてのハグとチークキスの本質」

オランダで“触れる挨拶”の自然さを知ったあと、私はスペインの外国人向けスペイン語学校で、教師が学生に語った話を思い出すことがある。その女性教師は最初の授業で、海外からきた学生を前にして必ず「ハグとチークキス」の挨拶について教えるそうだ。スペイン社会では「触れる挨拶=ハグやチークキス」が人間関係の基本になっている。「ハグやチークキスをするときに、男女関係の感情を抱いてはいけません。これはあくまでも挨拶の習慣です」と。ハグやチークキス文化の習慣がない国から来た学生は、どうしても”男女関係の延長”として誤解しやすい。だから、教師は最初にくぎを刺すのだという。

この言葉は、私が日本で感じていた違和感を見事に言い当てていた。日本では、異性間の身体接触はすぐに特別な意味を帯びてしまう。そのため、ハグは恋愛感情と結び付けられ、家族の中でさえ自然に行なわれることが少ない。しかし、スペインの語学教師が、外国人学生に言うように、「ハグやチークキスは、男女関係でなく、挨拶であり、存在を認め合う行為」なのだ。

3.日本の高齢者家庭にこそ”挨拶のハグ”を

最初に述べたように、日本でも、若い女性同士を中心にハグが広まりつつある。女性の高齢者同士でも、再会のハグが自然に行われるようになった。時代は静かに変わり始めている。そんな中で私は、「お父さん、御飯ですよ」「お風呂が沸きましたよ」と声をかけるだけの毎日になりがちな高齢者にこそハグの効用をお勧めしたい。スキンシップを毎日の生活の中に取り入れることで信頼感が生まれ、”これからも一緒に老後を暮らしていく”という安心感が高まるのではないかと感じている。我が家では、朝起きた時と寝る前にハグをする。それ以外でも、家の中ですれ違う時に軽くハグをする。抱擁のように強く抱きしめる必要はない。挨拶としての軽いハグでも十分効果がある。せっかく一緒に住んでいるのだから、そのぬくもりを日常の中で分かち合いたい。だからこそ、私は提案したい。

  • 朝の「おはよう」のハグ
  • 夜の「お休み」のハグ
  • すれ違いのざまの軽いハグ

軽く抱くだけで十分だ。それだけで、お互いの気持ちは穏やかになり、家の空気が柔らかくなる。特に高齢者の家庭では、この”触れる挨拶”が毎日の生活に潤いをもたらす。役割が減り、外出が減り、自分の存在感が薄れていくように感じることがある老後の日々に、ハグは確かな温かみを取り戻してくれる。一緒に暮らしているのだから、お互いの存在を確かめ合いながら気持ちよく過ごしたい。挨拶のハグは、そのための最も簡単で、そして最も確かな方法だと思う。

読者の皆さん、面倒ぐさがらずに始めてみてはいかがですか。さらに、高齢者の家庭だけでなく、年齢や性別を超えて、日本の家庭に自然なハグが広がっていくことを願っている。

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