世界に育てられた45年~「忘れがたい人」との出会いと学び~Vol.3       最強のアシスタント:イングリッド・ハウトクーパー氏  

出会い・学び

【初めに】

今から35年前の1991年、私は当時在籍していた大手日系食品会社から、「欧州市場進出プロジェクト」推進の現地責任者として、オランダへと派遣されました。ミッションは、まず現地に駐在員事務所を開設し、フィジビリティ―スタディー(実現可能性調査)を実施すること。その調査結果を参考にし、オランダでの製造販売の準備をし、予定通り事業をスタートさせることでした。この一連の激動のプロジェクトを裏方として支え続け、事業を軌道に乗せるうえで現地で採用したある女性の存在は不可欠でした。彼女の名前は、イングリッド・ハウトクーパー(Ingrid Houtkooper)氏。今回は、彼女の卓越したバックグラウンド、驚くべき記憶力と語学力、そしてともに乗り越えた「広報・危機管理」のエピソードを通じて、私が彼女から得た「忘れがたき学び」をお話しします。

【プロフィール】イングリッド・ハウトクーパー(Ingrid Houtkooper)氏

●ライデン大学日本語学科を卒業(1991年)

●日経大手食品会社勤務:通算13年間(1991~1997,2000~2006)

 当時の担当:事務所長アシスタント兼広報担当:コミニュケーションマネージャー

●大手スーパーマーケットのPR 次長

●PR フリーランス

●現在のおもな活動

  蘭日協会(Nederlands~Japanse Vereniging)会長(2021~)

  オランダにおける親日派ネットワークのキーパースンとして、協会運営の中枢を担う。

●福島県アンバサダーとしても活動中

【アムステルダム、リバーステートビルの一室からすべてが始まった】

私たちの挑戦は、アムステルダム市のアムステル川沿いにたたずむ「リバーステートビル」の一室からスタートしました。事務所の”住民”は、私とライデン大学を卒業したばかりのイングリッドさんの、わずか二人きりでした。7月から「満を持して」始動したのですが、異国でのスタートは日本のようにはいきませんでした。机や椅子、ロッカーなどのオフィス家具をドイツの業者に注文していたのですが、ちょうどヨーロッパの「夏季休暇シーズン」に重なってしまい、約束の日になっても配達されませんでした。何度催促の電話を入れても、完全に”なしのつぶて”。事務所にあるのは、電話一本だけでした。そこで、同じビルに事務所を構える日系企業に事情を話したところ、見るに見かねてデスクと椅子を貸していただきました。(当時の皆様、本当にありがとうございました。)「ヨーロッパの休暇期間中は、すべての業務や新規の面談の約束などは完全にストップする」。それが、私がオランダ赴任早々に身をもって知った、最初のカルチャーショックであり、最初の学びでした。小さな部屋で、電話一本を挟んで座る私とイングリッドさん。ここから、私たちの「最強の二人三脚」がはじまりまります。

【イングリッドさんとの出会い】

実は、オランダに正式赴任する前の1991年5月に、大型連休を利用してオランダに出張していました。目的は、活動拠点となる駐在員事務所の開設と物件探し、そして何より、現地で私の右腕となってくれるアシスタントの採用でした。日系企業や取引銀行など、あらゆるルートに紹介をお願いしていたある日のことです。日系大手広告会社のアムステルダム事務所が主催するレセプションに招待され、そこでトレーニー(実習生)として働いているイングリッドさんを紹介されました。彼女といろいろな話を交わすうちに、「今探しているアシスタント候補として、これ以上の人はいない」と直感し、その場で採用を確信しました。広告会社の社長に、彼女を私のアシスタントとして迎えたい旨を相談したところ、快く応じていただきました。こうして彼女の採用がトントン拍子に決まったのです。これが彼女とのすべてのはじまりでした。その出会いが、まさか今日まで35年も続く人生の大切な人になるとは、当時の私は想像もしていませんでした。私にとっては、ビジネスの戦友であると同時に、訪日の際はご夫妻で伊豆の拙宅まで遊びに来てくれるほど、長く深い親交が続いている大切な人でもあります。

【主な職務:二人三脚の激務】

事務所が始動してからの私の毎日は、とにかく一人でも多くの専門家や関係者に会い続ける、怒涛の毎日でした。文字通り、午前も午後も誰かと面談を繰り返す過密スケジュールです。面談することで、必要な情報が蓄積されていくのですが、同時に無名だった会社と商品を知っていただく道でもありました。この膨大な活動を裏で支えてくれたのが、イングリッドさんでした。これと思われる関係部署や専門家のリストアップにはじまり、分刻みの面談スケジュールの調整と管理。私が走り書きした面談メモの記録と整理。そして日本本社との日本語によるやり取り。小さな事務所で一人しかいないアシスタントでしたから、やれることは何でもやってもらいました。彼女の強力で的確なサポートがなければ、あの膨大な調査をやり遂げることは出来ませんでした。

【ヨーロッパ全域からの情報収集を可能にした「語学力」】

ライデン大学の日本語学科を卒業している彼女の日本語能力、特に「漢字の読み書き」のレベルは、日本人であるより数段上でした。もし当時、日本の漢字検定を受けたら1級に合格していたと思います。ちなみに、35年たった現在は、スマートフォンの「WhatsApp」を使い、すべて日本語でテンポよくコミニュケーションを取っています。(参考までに、オランダの大学は、入学は比較的やさしいのですが、卒業するのはきわめて厳しく、一般的に卒業するのは3割前後と言われています。また卒業時期は、卒業論文と面接を合格した数人のグループ別に行われていました)

驚くべきは、日本語だけではありません。高校時代にラテン語を学んだという基礎もあり、彼女は母国語のほかにドイツ語、フランス語、英語も自在に操りました。これは、実質的に「一人で4か国(四人分)」の情報収集と処理能力を持っているということです。イギリスやドイツの最新のマーケティング雑誌や企業情報から必要な情報を整理し,レポートしてくれたのも彼女でした。フランスのマーケティング雑誌の記者に取材を受けた際も、イングリッドさんのプロフェッショナルな通訳で、滞りなく無事に終えることが出来ました。とにかく、一か所にすべての情報が集中しているというメリットは計り知れませんでした。

真ん中がイングリッドさん「1992年?)
オープニングレセプションで受け付けをするイングリッドさん「1994年)

【最も感嘆した「記憶力」と「ネットワーク把握力」】

私はもともと、人の名前を覚えるのが大の苦手です。特にオランダ語の名前は発音が難しく、スペルも長いため、なかなか頭に残りません。最終的に私たちの人脈カード(顧客や関係者名簿)は、1000名ほどに膨れ上がりましたが、イングリッドさんはその全員の名前を正確に記憶していたのではないかと思います。私が連絡を取ってほしい人の名前が出てこず、「ほら、いついつ、あそこで会った農水省の担当者・・・」と非常にあいまいな手掛かりを伝えても、彼女は「ああ、あの人ですね」と即座に該当者を探し出してくれました。単に名前を憶えているだけでなく、その人物の役職やバックグラウンドまでを正確に把握する能力には、何度も救われ、ただただ驚嘆するばかりでした。パソコンや携帯電話のない時のことです。彼女の能力が、どれほど貴重だったか。実はつい先日も、当時のプロジェクトに関わっていた社員やコンサルタントの名前が思い出せず、彼女に問い合わせたところ、すぐに返事がきました。彼女の「最強の記憶力」は、35年たった今もなお健在です。

【危機管理(リスクマネージメント):今も胸に残る2つの教訓】

企業広報(PR)マネージャーとしての彼女のプロフェッショナルな姿勢が最も発揮されたのは、食品会社にとって最大の不確実性であり、命取りにもなり得る「商品事故(クライシス)」を想定した初期対応の仕組みでした。彼女の徹底した広報方針は、一貫していました。「万が一、商品に関するトラブルが発生した場合、一切の言い訳をせず、まずトップ(社長)が即座にメディアの前に立ち、状況を説明しなければならないという原則です。

その原則を私に叩き込むため、私は彼女の主導のもと、報道陣から厳しい追及を受けるシーンを想定した「テレビ(TV)対応の模擬トレーニング」を何度も受けることになりました。カメラを前にした緊迫した予行演習は、想像を絶する難しさでした。そして、この模擬トレーニングで教え込まれ、今でも私の胸深く刻まれている重要な教訓が二つあります。

 1.「目の前の記者に答えるのではない。記者の後ろに控える大勢の「消費者」や「国民」に向けて説明することを常に自覚せよ」

 2.「たとえ同じ質問を何回も受けたとしても「先ほど説明しましたように・・・」と遮ってはならない。必ず毎回、丁寧に誠意をもって回答すること。

この二つの教訓は、後日別の広報担当部長からレクチャーを受けた際にも、まったく同じ教えとして登場しました。この「最悪の事態を想定した事前メディア訓練こそが、自己責任性の厳しいヨーロッパ社会で会社を守るためにも不可欠な、生きたリスクマネージメントだったのです。

【個人的なエピソード:温かい素顔とカルチャーショック】

仕事では完璧でクールなプロフェッショナルであるイングリッドさんですが、プライベートではとてもチャーミングで、たくさんの楽しい思い出を私にくれました。

●驚きとお洒落になあふれた結婚式

 彼女の結婚式に招かれて出席した時のことです。パーティーは、彼女とパートナーの友人たちがオーガナイズ(企画)していたと思うのですが、なんとそこには「元カレ」も招待されていました。友人たちのスピーチでは、過去のボーイフレンドやガールフレンドの話題が出るたびに会場全体が爆笑。オランダのオープンでおおらかな恋愛観?に、まずは驚かされました。(イングリッドさん、間違っていたらごめんなさい)

さらに驚いたのは、お祝い金の渡し方です。パーティーがまだ進行中、スタッフが「砂の入ったバケツ」を持って出席者たちを回り始めました。「何かの余興がはじまるのかな?」と思って見ていると、出席者たちがポケットや財布からコインを出して、その砂の中に次々と埋め込んでいくのです。これが、出席者たちからのお祝い金(ご祝儀)のスタイルでした。一人一人が、自分で出せる金額のコインを、周りに分からないように砂に埋め込んでいく。あまりお金のない若者にとっては何と考えられた方法でしょうか。私は、日本式に封筒にお金を入れて事前に手渡しましたが、このオランダ式の方法はとても合理的で、かつ何とも洒落たお祝いの仕方だと深く感心しました。

●家庭訪問をして、二度びっくり

ある時、イングリッドさんのご実家に招かれました。彼女の実家は、チーズの産地と「チーズマーケット」の開催地として有名なアルクマール市の郊外にありました。ご実家を訪問した際、暖かく迎えてくれたご両親とご兄弟を見て、私は文字通り目を見張りました。みなさん身長が2メートルを超えているのではないかと思うほどの高身長だったのです。イングリッドさん自身も183センチあり、十分に背が高いのですが、何と彼女は「家族の中で一番背が低い」とのこと。オランダが世界一平均身長が高い国だとは知っていましたが、そのスケールを身をもって体感した、忘れられない思い出です。

【まとめ:35年目のありがとう】

スマホもLineもパソコンもなく、日本との連絡は時差を気にしながらの国際電話とFAXだけが頼りだった1991年。駐在事務所所長としてやらなければならないことは山ほどあるにもかかわらず、どこから手を付けていいものやら、当時の私はただ戸惑うばかりでした。オランダ語は全く分かりませんでしたので、一日も早く、アシスタントの採用が急務でした。そんな五里霧中の私を支えてくれたのが、最初のアシスタントとして迎えたイングリッドさんでした。たった二人きりで始めた小さな駐在員事務所。しかし、彼女は私が求める以上の卓越した能力を発揮し、「欧州市場への進出」という大きなプロジェクトで素晴らしい成果を上げてくれました。彼女こそ私が「最強のアシスタント」と確信し、ビジネスパースンとして私の人生を大きく変えてくれることになったかけがいのない恩人です。・

2006年にフリーランスになってからも、彼女の活躍はとどまるところをしりません。2011年の東日本大震災以降は、日本に何度も足を運んで、東日本の現状を世界に発信続け、現在は「福島県アンバサダー」としても熱心に活躍されています。こうした長年の真摯な活動が評価され、2021年からは、オランダ最大の日本文化・経済交流の民間団体である「蘭日協会」の会長(事務局長も兼任)を務めています。今もなお東日本大震災の支援や文化発信の中心人物として尽力されています。

35年前、アムステルダムのあの小さな部屋で、電話一本を挟んで向き合っていたイングリッドさんが、今日では日本とオランダの懸け橋となる活動のトップに立っているその姿を、私は一人の友人として深く尊敬するとともに、言葉にできないほど嬉しく思っています。

イングリッドさん、あの時は本当にありがとうございました。あなたの益々のご活躍を、伊豆の山中からずっとづ応援しています。また暇があれば拙宅に遊びに来てください。妻と一緒にお待ちしております。

最後に、読者の皆様、イングリッドさんは”Facebook”で日本文化や福島の現状を発信続けています。是非一度立ち寄ってご覧ください。

【次回予告】

次回は、オランダに赴任した時から今日にいたるまで、オランダでのビジネスの指南役に限らず、オランダの生活を楽しむ機会と方法を教えていただいたヤープ・ロストーネスご夫妻のお話をしたいと思います。楽しみにしていてください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました